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さとりをひらいた犬 ~ほんとうの自分に出会う物語~ - 経営の黒字化に向けた業務受託 (株)ちえじん

一人ひとりが役割を発見し、
持って生まれた能力に気づいて、楽しく働き、楽しく生きよう

2023.03.29 書棚

さとりをひらいた犬 ~ほんとうの自分に出会う物語~

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さとりをひらいた犬
~ほんとうの自分に出会う物語~
刀根健 著 2021年12月28日発行

あらすじ

人間の主人に仕える勇敢な猟犬・ジョンは、ご主人の銃で撃たれた狼(ダルシャ)から、「お前は人間に『飼われている』んだろう」と言われ、『飼われている』という言葉が、なぜが心の奥底にチクッと刺さる。ジョンは、狼(ダルシャ)から、“生存している”と“ほんとうに生きている”とは、存在の形態が違うのだ。いまの君は生存しているだけだ。生きてはいない。それに気づくんだ。と話される。
悩むジョンに対して猟犬の仲間たちは、余計なことは考えるな。何も考えずに役割だけこなしていければ、楽に幸せに、そこそこの自由を満喫して何不自由なく生きることができるじゃないか」と説得されるが、ジョンは、主人や仲間から離れ、「ほんとうの自分」「ほんとうの自由」を探しに、伝説の聖地・ハイランドを目指す。旅の途中、多くの冒険、いくつもの困難を乗り越えながら、仲間や師との出会いを通じて、聖地・ハイランドに導かれていく。そして、ついにハイランドへの到達を果たすことになるのだが、師から「ハイランドという場所など、ない」と告げられる。ハイランドへ行きたいという願いは、執着、しがみつきと言われ、行きたいと願ったとき、行かねばならないと雲がしゃべったとき、に感じるものは、苦しみであり、苦しみを創り出すのはエゴの声と知り、エゴはほんとうの自分ではないことを知る。身体やエゴの声といった“自分”からの自由・・・これがほんとうの自由だとわかる。“さとり”とは、身体、心、魂の3つのレベルで“わたしはいないと知る”ことだと師から教わる。
私たちはなんのために生まれ、どう生きるべきかを考えさせてくれる内容。

感じたこと、気づかせもらったこと

物語を通して、場面ごとに投げかけられる言葉一つ一つに、どういう意味だろう、と悩み、考えさせてもらえる本でした。自分と重ねるところも、身近にいる人を重ねるところも多くありました。
“エゴは自分の中に牢獄を創り出す、それを真実だと思い込むと、自らをその世界に閉じ込めてしまう。”“自らが創り出した“恐怖”という影によって、未来におびえながら生きている。恐怖は自分の思考が創り出した幻想だとも気づかずに。“
色んな人と出会い、色んな経験をさせてもらう中で、無意識のうちに「こうであるべき」「正しい方向、姿」「成功とは」という像が自分の中に創られていて、ふとそれに違和感を感じる瞬間があります。
そんなエゴや恐怖を感じる要素の一つに、「お金」が浮かびました。お金の存在は、現実世界で生きる人間にとって、「ほんとうの自分に目覚める、魂の声を聞く、魂を遊ばせる」ことに対して、なんだか大きな試練のように感じます。同世代の仲間達と勉強する中で、お金とは何か、固定費とは何か、売上とは何か、目標数字とは何か、ほんとうの黒字化とはどんな状態を表すのか、今までの概念に疑念を抱くことが増え、改めて考えています。まだまだ自分の言葉では伝えられませんが、疑念が沸くという状態は本質に近づこうとしているのかも、という嬉しさがあります。また、本文に“幻想に気づくこと、幻想を見抜くこと、それが本当の自分へのほんとうの自由への第一歩なのだ”とありました。なんとなく世の中のあたりまえになっている正解に執着することで自分自身や周りの人たちを閉じ込めてしまわないように、常に問いを持って、意味を見出すこと、その時点でのしっくりくる概念を社内や仲間と一緒に共有することを心がけたいなぁと思います。
最後に、“抵抗せず、判断せず、執着せず、ただひたすら、ありのまま、自らの心を観照し続けなさい”とありました。これはまだまだ感覚としては得られていませんが、ジョンのようにほんとうの自分に目覚めて、ほんとうに生きている、と実感できる状態でいられるよう、自分の魂の声を大事にしたいと思います。
観照(かんしょう):主観をまじえないで物事を冷静に観察して、意味を明らかに知ること。美学で、対象の美を直接的に感じ取ること。美の直観。/デジタル大辞泉より引用  (ちえじん 星川晴菜)

冒頭の、「ほんとうの自分とはなんなのか?」「ほんとうの自由とはなんなのか?」それを知りたくはないか?という問いかけ。今までの自分ならなんとなく通り過ぎていたと思います。それは自分の事は自分が一番よく知っているという思い込みがずっとあったからで、今まで「自分」というものに、本当も何もないと思っていました。それは自分の頭では何も考えられず、まさに、ごくごく小さな世界の中で、習慣的・機械的・反応的にただ生存しているだけだったからです。
「自分と向き合い、自分を見つめ、そして見抜く。自分を知ることができたものだけが次の道へと進むことが出来る」という言葉もとても印象的でした。これは全編を通して出てくる、魂の声を聴くということにつながるのかなと思います。
そして、「さとり」について、三つのレベルで私はいないと知るということ。分裂した個ではなく、宇宙、全体、大いなる存在、それそのものだという事。という 2 点でした。この二つのことは、最近の科学の世界でも言われている一つの仮説で、138 億年前宇宙には何もなくただ量子真空という 1 つの点だったという説と何か繋がってるなぁと思いました。全 8 章の中で、問いかけられ、向き合い、見つめ、見抜いた先に悟りがあるのかなぁと思いました。
自分の場合は悟りを開きたいと思っているわけではないのですが、この本に出会い、初めて
「自分というものを知りたい」「自分に対して、自分と向き合うことをしたい」と思うよう
になってきました。
そのためにも、「魂のおもむくままに自己という存在を生き切る」をしたいと思いました。(ちえじん 千本晃稔)

YouTubeシンプリィライフのチャンネル(こんがらがった人生が1本のシンプルな線になる」、主に量子力学の知識を活用して「人生を豊かに生きる方法」について発信)を見た千本晃稔さんから、教えてもらったのきっかけで読ませてもらいました。
ほんとうの自分に出会うために、傷ついている自分を認めること。本文のなかにあるシーザーの「愛してほしい」。満たすために相手を攻撃することで癒されようとする。誰かに対しての怒り、不信感、恐怖、不快を感じたら、自分のなかに抱えている傷があることを認識する機会だと書かれてありました。そこで、身体の声とエゴの声を認識し、癒したら、そのもっと奥の中心のほうから、ほんとうの自分のささやき声が魂の声が聞こえている。その声にしたがい、身をまかせて生きていくことが、自分を超え、自己という存在を生き切ること。そんな人生がいいなぁと感じました。
シンプリィライフさんが紹介されているだけに、現代科学の量子力学がベースに書かれているなぁと感じました。主人公のジョンが、師のレドルクから教わる後半は、読み応えがあり、忘れないように振り返り引用に書きました。常に読み返して実践していきたいと思います。(ちえじん 星川真一郎)

振り返り 引用

苦しみとは、いま目の前に起きている体験を受け入れないというこじゃ。目の前に展開する現実に抵抗しているということじゃ。
P.151

わしらは3つの存在でできておる。一つは身体、もうひとつはエゴ、そして最後は魂。この三つのバランスが取れてこその、わしらなのじゃ。
P.162

3つの生きる価値
一つは『創造』するという価値。自分の行為によって何かを創り上げる。
二つ目は『体験』する価値。君が自由になったとき、何を感じた?森を感じ、木々を感じ、太陽、そして世界を感じなかったか?
三つ目は『態度』による価値。どういう場面においても、自分の魂の声を聴き、その声に従って誇り高く、愛に満ちた自分でいること。『これが私だ』という私で在る(Being)こと。
P.248

全ては必然。お前の住んでいる世界の出来事は、全てお互いの魂の計画なのだ。全ては体験による学びと遊びだ。私たちはお互いの芝居の演目を演じる役者同士なのだよ。だから、そちらの世界にいるときは、その芝居を楽しむことだ。
P.277

おんしが見ている世界というのは、おんし自身のエゴが創り出す幻想の、拡大されたもの以外の、何ものでもないと知るのじゃ
P.343

自分の心という雲海を眺めていた。その雲をしばらく見つめていると、雲は雲海に沈んで、消えてしまった。
するすぐに次の雲がもくもくと立ち上がった「どうすればいいんだ」その雲はその言葉で満ちていた。
~中略~
自分の内側を見つめ続けると、いずれはエゴが落ちる。エゴのおしゃべりがやむ。完全に停止するのじゃ。
抵抗せず、判断せず、執着せず、ただひたすら、ありのまま、自らの心を観照し続けなさい
P.346

「“私”は分裂した個ではなく、宇宙、全体、大いなる存在、そう、“それ”そのものだということが、三つの存在を通して、腹の底からわかる。それが“さとり”じゃ」いままさに、それを体験したんだった。
全体という大いなる流れの中で、“いま”というこの瞬間に、全体という意識が出会った“接触点”なのじゃよ。“流れ”と“意識”が出会う点、それがわしらなのじゃよ。
「僕たちは、“流れ”と“意識”の出会う“接触点”・・・」
「これが“さとり”であり、“覚醒”であり、“ほんとうの自分”に目覚めること、なんじゃ」
P.354

▶解説(刀根さんご本人から)
ジョンが全体と宇宙と一つになるという体験をした後にその説明をするなかで出てくる言葉なんですよね。あのあと、2年半近くたって僕自身もあれから気づきも深まったりしてね、もうちょっと今の僕から説明を加えるとするとですね、あの当時は知らなかった言葉なんですけど、禅の言葉で、“三身”という言葉があるんですよ。僕らは三つの身で出来ていると。僕的な翻訳でいうとそういう翻訳になるんですけど、一つ目は“法身(ほうしん)”というもので、宇宙のエネルギーそのものなんですね。僕らは宇宙の分身というか、宇宙のエネルギーから出来ているじゃないですか。体もそうだし、宇宙の一部ですよね。エネルギー的にはそうですよね。どうあがいたとしても宇宙というものの中から僕らは出来ているんですね。それが最初の“法身”、私たちは宇宙の一部です、肉体も含めてエネルギーも含めて、存在もそうだし全部宇宙の一部なんです、私たちは宇宙なんです。二番目の“報身(ほうしん)”というのは、これが三次元に顕現している僕ら、肉体として現れていて、そして肉体として現れている“私”の、この世界の役割、みたいな。これが二番目の“報身”なんですね。私たちはこの三次元世界に、肉体として顕現していて、現れていて、その肉体一つ一つに、私は今世、今生では、こういうことをやろうとか、こういう役割を生きようとか、こういう体験をしようとか、そういうことを生まれる前に計画をしていて、魂の計画と言われたりしますけどね。そういうものを持ってここに生まれてきて、ここに“私”という存在がいるわけですよね。これが二番目の“報身”。三番目の“応身(おうしん)”は、流れのなかの“私”なんです。人生のなかでいろんなことが起こりますよね。流れていくわけです、目の前にいろんなことが、この瞬間、この瞬間、瞬間、瞬間変わって目の前の状況が変わって流れていくわけですよね。ですから先ほどの例でいうと僕が、東京駅に行った、東京駅にいったら電車が来た。電車が来て僕がなかに乗ったら押し出された、押し出されたら前が空いたみたいな流れがあるんですよね。この流れが三つ目の“応身”ってやつです。自分の前に展開する流れ、この流れ自体も実は、自分がつくり出しているんだよと。今、なんでこんな話をしたのかというと、さきほどのレドルクの話をもうちょっと、もうちょっと分析するとですね、まず全体の“法身”がありますね。そして法律の法の“法身”だと般若心経の世界になっちゃうんですよ。エネルギーの世界なんです。でもそこにエネルギーとして存在していても、そこに眼も鼻も耳も無いかから、舌も無いから、口も無いから、時間も無いからそこには。僕らが“法身”の状態だと、空間の世界なんです。なので空間というところから僕らは、“私”という存在をリアルに感じるために、この体を持っているんですね。それが「眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻(臭覚)、舌身(触覚)」の五感と「意(意識)」で合わせて六根(ろっこん)というセンサーを持っているわけですよ。眼、耳、鼻、口そして思考、エゴですね。これが二番目の“報身”なんです。そして目の前に流れてくるいろんな流れがあります。最後の“応身(おうしん)”があります。流れだけだと、例えば真ん中の二番目の“報身”が無かったら、ただの流れていくだけで、目の前を流れていくだけで、それをキャッチするという眼、耳、鼻、舌身、意が無いんですよ。センサーが無いんですよ。つまり、眼で見ていないし、鼻でも嗅いでないし、そういうセンサーがないと流れるだけで、そこに“私”がいないんですよ。だからこそ、“私”という存在が必要なんです。この目の前の流れを、流れていく流れを“私”という肉体、眼、耳、鼻、舌身、意があるとこによって、“私”という接合点ができるのです。“私”がないと流れるだけなんですよ。ですから私というのは宇宙全体が目の前を流れていく“応身(おうしん)”。自分が“応身(おうしん)”として流れていく。そこに“私”というものがいるからこそ、だからこの三つの身体で僕らはこの世界を体験できるんです。その接合点なんです。宇宙としての“私”、“法身(ほうしん)”。それから目の前を流れていく流れを接合点というのが、二番目の“報身(ほうしん)”の“私”なんです。“私”がいないと存在しない、三つ揃っての“私”なんです。これがこの部分で言いたかったことです。宇宙と流れを接合する、接続ポイントが私。

身体の自分、エゴの自分がいなくなり、それらが全て落ちて、魂の自分につながって、ほんとうの自由そのものになったとき、そのときに初めてほんとうの自分になるのです。
でもそのとき、自分はいなくなります。自分が消えるのです。
ほんとうの自分に到達すると、自分は消える。“自分”から“自己”へ移行する。“自分”という文字は“自(おの)ずから分かれる”と書く。
大いなる存在、“それ”からわかれてしまった存在、それが“自分”じゃ。その分離・境界が消えるんじゃ。
そこに僕はいなかった、すべてが僕だった。この空間も、樹も湖も大杉も、リスやウサギ、そしてレドルクもみんな僕だった。いまここに存在する全てを包み込みながら、僕という存在から、愛おしさと慈しみが大波として溢れ出ていた。
P.355

『魂』のおもむくままに・・・。“自分”を超え“自己”という存在を生き切ってごらん。魂を遊ばせて上げることじゃ。この世界は魂の遊び場じゃ。
P.357

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