一人ひとりが役割を発見し、
持って生まれた能力に気づいて、楽しく働き、楽しく生きよう
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持って生まれた能力に気づいて、楽しく働き、楽しく生きよう
ビジネスの未来 ~エコノミーにヒューマニティを取り戻す~ 山口周著 2020年12月21日発行
資本主義の限界、脱成長コミュニズムを提唱している斎藤幸平さんのTwitterに「“人新世の資本論(斉藤幸平著)”の本が、むずかしいと思った人は「ビジネスの未来」山口周著を読んでみてください」と書かれているのを見て、さっそく購入。サブタイトルは「新しい時代を創るために資本主義をハックしよう」とありました。いきなり“ビジネスはその歴史的使命を終えつつある”という結論が書かれてありました。いま、低成長、停滞、衰退と言われるのは、ここ100年で素晴らしい進歩と改善を成し遂げた末の“成熟した明るい高原”に向かっている結果であり、必然的で、なんら悲しむことではないと述べられています。その100年は、経済的合理性を追求し、マーケティングという手段で混乱をつくり出し、“消費(破壊)”を促し、新たな問題をつくり出し、市場が創られてきたと書かれてあります。山口周さんの経歴を見ると、電通、ボストンなど、“破壊と創造”を仕掛けてきた中心にいた人であり、いわば、ご自分たちの世代がやってきたことをよくご存じだからこそ、これからの時代を生きていく人たちへの“生き方、働き方”を示してくれていると思いました。ちえじんの社内でも、参考図書としてこれからの社会のあり方をみんなで読ませていただきました。敬愛している田坂広志さんが言う「人類全体の意識の変容」、「人々の価値観の転換」に通じるものがありました。都度、引用や備忘メモを確認しながら、前に進んでいきたいと思います。
追記
“ビジネスの未来”の“ビジネス”という言葉ですが、山口揚平氏の言葉を引用すると「ビジネス(Business)という言葉の語源は、Awarenessという『人のことを思いやる、ケアすること』。もっと難しく言うと『自分の才能を貢献に変換する作業』。それが本来の『仕事』という意味なのです」とありました。“ビジネス”というと一般的には、ドライな、損得で割り切った、ビジネスライク(事務的)なイメージがありますが、ここでは“ケアする”感じで読み進めます。
ちえじん 星川真一郎
●引用&備忘メモ
◎私たちに課せられた仕事
21世紀を生きる私たちに課せられた仕事は、過去のノスタルジーに引きずられて終了しつつある「経済成長」というゲームに不毛な延命や組成措置を施すことでなく、私たちが到達したこの「高原」をお互い祝祭しつつ、「新しい活動」を通じて、この世界を「安全で便利な(だけの)世界」から「真に豊かで生きるに値する社会」への変成(性質が変わる)させていくことにあります。P.13引用
◎転機を前向きに乗り越えるための3つのポイント
1.終焉の受容
“転機”とは「何かが始まる時期」ではなく、逆に「何かが終わる時期」
「経済成長とテクノロジーの力によって物質的貧困を社会からなくす」というミッションの終了。
2.この状況(低成長、停滞、衰退)をポジティブに受け入れよう
“低成長”は、“文明化の終了”がもたらした必然的な状況
3.構想が描かれていない
「どのような社会をつくりたいのか?」という構想が描かれないままに、単なる「変化率」を表す概念でしかない“成長”という指標だけが、独善的に一人歩きしている。P.13引用
◎何のために?という問いに答えられない
私たち人間は“意味”をエネルギーにして生きていますから、意味も意義も感じられない営みに携わって生きることはできません。大きな危機を迎えることになるのであれば、経済的な衰退や物質的な不足などではなく、間違いなく“意味の喪失”という問題によって引き起こされることになるでしょう。“意味の喪失”した人々はニヒリズムに陥ることになります。では「ニヒリズム」とは何でしょうか?それは「何のために?という問いに答えられない状態だ」というのがニーチェの回答です。
「物質的豊かさを提供して社会から貧困をなくす」ことをビジネス目的として掲げれば、9割の人が物質的に満足している状況において「何のために我々は存在するのか」という問いに答えることはできません。P.41引用
◎何を測る?
本来、私たちがやらなければならないのは、そのような「GDPの延命措置」ではなく、「人間が人間らしく生きるとはどうことか」「より良い社会とはどのようものか」という議論上に、では「何を測れば、その達成感の度合いが測れるのか」を考えることでしょう。P.49引用
◎「資本の価値」も「時間の価値」もゼロに
「時間」に価値がなくなったから「金利」の価値も下がっていると考えるべきなのです。なぜ「時間」に価値がなくなったかというと、それは私たちの社会がすでの「高原」に達しており、時間を経ることで上昇・成長・拡大するという期待が持てなくなったからです。P.81引用
◎資本に変わるものは何?
シュワブは「資本主義から才能主義への転換」と記者に答えています。“才能”とは言い換えれば“個性”ということです。いま、この世界に生きている人々が、各自の衝動に基づいて発揮する個性こそが、社会をより豊かで瑞々しいものに変えていく。そういう未来を「才能主義」と言っているのです。
近代以来、私たちの社会を苛み続けた「無限の成長・拡大・上昇を求める圧力」が徐々に減圧されていく新しい時代を生きることになります。この新しい時代において、私たちは、これまで私たちが依拠してきたさまざまな規範が次々と解体されていく様を目にすることになるでしょう。
真に問題なのは「経済成長しない」ということではなく「経済以外の何を成長させれば良いのはわからない」という社会構想力の貧しさであり、さらに言えば「経済成長しない状態を豊かに生きることができない」という私たちの心の貧しさなのです。
※苛む(さいなむ)苦しめ悩ます。いじめる。責めしかる。P.85引用
◎経済性から人間性への転換
「便利で快適な世界」を「生きるに値する」へと変えていく
ここ100年のあいだ、私たちの社会を苛み続けてきた3つの脅迫
・「文明のためなら自然を犠牲にしても仕方がない」という文明主義
・「未来のためにいまを犠牲にしても仕方がない」という未来主義
・「成長のために人間性を犠牲にしても仕方がない」という成長主義
ごく一部の人だけが経済的勝者となって享楽的な生活を送る一方で、ほとんどの人は生きがいもやりがいも感じられない「人口知能の奴隷」のような仕事に従事し、オスカーワイルドの言葉を借りれば「真に生きているのではなく、ただ生存しているだけ」という人生を送ることになるでしょう。P.94引用
◎経済合理性限界曲線の中から外へ
「数万人の会社」といったものは歴史上、存在しなかった。「問題の質」が「物質的な不足」解決から「精神的な飢え」の解消へと転換することになれば、かつての恐竜と同じように、多くの大企業は環境などの不和を起こし、ごく少数を除いて世の中から必要とされなくなるでしょう。
一方で、その真逆のトレンドとして、普遍性の低い個別的な問題の対処によって十分必要な対価を得ることができる小規模の集団や組織、あるいは多様化する精神的価値へのニーズを充足できる個人や集団は、今後、ますます求められていくことになるでしょう。
「問題解決にかかるための費用」と「問題解決で得られる利益」が均衡する限界ライン(経済合理性限界曲線)。このラインを上に抜けようとすると「問題解決の難易度が高すぎて投資を回収できない」という限界に突き当たり、このラインを左側に抜けようとすると「問題解決によって得られるリターンが小さすぎて投資を回収できない」という限界に近づきます。資本主義では、ラインの外側にある問題は「解決不可能な問題」として未着手のまま放置されることになります。市場は「経済合理性限界曲線」の内側の問題しか解決できない。P.94引用
◎経済合理性を超えた「衝動」が必要
たしかに私たちの文明社会は市場原理とテクノロジーの力を用いて、数多くの問題を解決することに成功してきました。しかし、これを逆側から指摘すれば、現時点で残存している問題の多くは、現在の社会システムを前提にしていては解けない「経済合理性曲線」の向こう側に横たわっているということでもあります。~中略~ 経済合理性だけに頼ったのでは解決することができない問題を「だから仕方がない」で済ますことは私たちには許されません。~中略~ 現在の世界に残存する「希少だが解決の難しい問題」は経済合理性とは別のモチベーションを発動することによってしか解決できない。モチベーションの源泉は「人間性に根ざした衝動」しかないと考えています。“衝動”とはつまり「そうせざるにはいられない」という強い気持ちのことです。損得計算を勘定に入れれば「やってられないよ」という問題を解決するためには、経済合理性を超えた“衝動”が必要になります。“衝動”によって自己を駆動する人によってしか解決することができません。P.121引用
◎ドラッカー(マーケティング)の終わり!?
新たな問題を生み出すことで「ゲーム終了」を先延ばしすることができる、これがマーケティングの本質です。
ピーター・ドラッカーは、企業の目的は一つしかなく、それは「顧客の創造」であるとした上で、さらにその活動は「マーケティング」と「イノベーション」の二つに支えられる、と言い切りました。この言葉自体はよく知られていますが、これを先述した「問題の開発」と「問題の解消」という枠組みで考えてみれば、実は同じことを言っているということがわかります。つまり「問題の開発」がマーケティングであり、「問題の解消」がイノベーションだということです。
~中略~
‟マーケティング”という用語は自体は20世紀の初頭に生まれていますが、今日の私たちが用いているのと同様の概念として定着したのは、1960年~1970年代のことです。今日でもビジネススクールのマーケティング科目の定番教科書として用いられているフィリップコトラーの『マーケティング・マネジメント』の初版がアメリカで出版されたのは1967年のことでした。
この1967年という年に不思議な符号を感じないわけにはいきません。放っておいても社会が次から次へと「解いてほしい問題」を投げかけてくれているのであれば、マーケティングは必要ありません。マーケティングが体系的なスキルとして社会に求められるようになった、ということは、事業者みずからが問題を開発しなければ、新しい欲求を生み出すことができなくなったことの証左でもあるのです。私たちの世界が「高原の軟着陸」というフェーズに入りつつあることをさまざまな指標を用いて説明しましたが、18世紀以来、200年にわたって続いてきた経済や人口の成長率が、はじめてカーブを緩め始めたのが1960年代の後半だったことを思い出してください。まさにこの時期においてビジネスの歴史的役割が「終幕の序章」に差し掛かっていたのだと考えれば、同じ時期に「人為的に社会の欲求・渇望を生み出すための技術体系」であるマーケティングが、いわば「ビジネスの延命措置」として産業社会から強く求められ、そのようなスキルをもった人材が労働市場において高く評価されたのは当然のことでしょう。
道徳か好景気か?!
1970年代において広告代理店電通でマーケティング戦略立案のために用いられていた「戦略十訓」を確認してみましょう。
1.もっと使わせろ
2.捨てさせろ
3.無駄遣いさせろ
4.季節を忘れさせろ
5.贈り物をさせろ
6.組み合わせで買わせろ
7.きっかけを投じろ
8.流行に遅れさせろ
9.気安く買わせろ
10.混乱をつくり出せ
使命を達成されそうになるとわざわざいらぬ「混乱」をつくり出してそれを延命する、ということを延々と行っているのが今の社会なのだということが「戦略の十訓」を読めばよくわかります。
嫌な話ですが、大規模な災害や戦争の後にはGDPが増大します。大きな破壊が起きるとその破壊を埋め合わせるための大規模な生産が必ず後で発生するからです。これはつまり、経済成長というのはそもそも、その前提として“破壊”という“営み”を必要としていることです。“破壊”の別の言葉が“消費”です。“消費”とはすなわち「廃棄してスクラップにする」ことですから“破壊”と同義なのです。この“消費と呼ばれる破壊”を促進するための知識・技術の体系が「マーケティング」なのであるとすれば、この活動が潜在的にいかに大きな問題に接続されかねない「倫理的にギリギリの活動」なのかが理解できると思います。P.135引用
◎個性を発揮して生きていくために
私たちは「人間性に根ざした衝動」によって駆動される経済活動のあり方をポジティブに表現する言葉を私たちの分かは持っていないのです。
◎インストルメンタル(道具的、手段的、功利的)
・中長期的
・手段はコスト
・手段と目的が別
・利得が外在的
・合理的
◎コンサマトリー(それ自体が目的、自己充足的)
・瞬間的
・手段自体が利得
・手段と目的が融合
・利得が内在的
・直観的
「いま、この瞬間に感じられる愉悦、官能という利得によって行為のコストが回収される活動」という考え方を「コンサマトリー」という概念で表したいと思います。
私たち人間が「生の充実」をもっと強く感じるのが「人間性に根ざした衝動」を解放した時なのだとすれば、すでに十分な文明化を果たした私たちの「高原社会」において、人々が、本質的な意味でより豊かに、瑞々しく、それぞれの個性を発揮して生きていくためには、各人の個性に根ざした衝動を解放しなくてはなりません。
しかし、現在の社会では、このような「人間を人間ならしめる」衝動的欲求の多くが未達になっており、そしてより重大なことに、その「未達になっていること自体」にあまりにも多くの人が無自覚です。先述した通り、市場が「未達の欲求」があるところに生まれるのであれば、これまでの経済とは異なる位相の広大な市場が、潜在的に生まれることなります。
このような「人間的衝動」に根ざした欲求の充足こそが、経済と人間性、エコノミーとヒューマニティの両立を可能する、唯一の道筋なのではないかと考えています。P.164引用
◎一人ひとりが個性を出していいんだコンサマトリーな社会においては、「便利さ」よりは「豊かさ」が、「機能」よりも「情緒」が、「効率」よりは「ロマン」が、より価値のあるものとして求められることになるでしょう。そして一人ひとりが個性を発揮し、それぞれの領域で「役に立つ」ことよりも「意味がある」ことを追求することで、社会の多様化がすすみ、固有の「意味」に共感する顧客とのあいだで、貨幣経済だけでつながっていた経済的関係とは異なる強い心理的つながりを形成することになるでしょう。P.174引用
◎感情が出ないと突き動かされない
あたかもアーティストやダンサーが、衝動に突き動かされるように作品制作に携わるのと同じように、私たちもまた経済活動に携わろう。現代アーティストというのは、彼らなりの視点で見つけた「どうしても看過できない問題」を彼らなりのやり方で提起し、場合によっては解消しているのです。ビジネスが「社会における問題の発見と解決」にあるのだとすれば、本質的にこれはアーティストが行っていることと同じことなのです。
本質的に、いま私たちに求められているのは、ビジネスそのものをアートプロジェクトとして捉えるという考え方、つまりビジネスアートという考え方だと思います。
文明化があまねく行き渡り、すでに物質的な問題が解消された高原の社会において、新しい価値をもつことになるのは、私たちの社会を「生きるに値するものに変えていく」ということのはずです。これからの高原社会におけるビジネスはすべからく、私たちの社会をより豊かなものにするために、各人がイニシアティブをとって始めたアートプロジェクトのようにならなくてはいけないと思うのです。
P.186引用
◎経済的合理性って、公認会計士からよく聞いたなぁ
すでに何度も確認してきた通り、私たちの世界はすでに経済合理性限界曲線の内側にある物質的問題をほぼ解決して終えた「高原の社会」に達しています。このような「高原社会」において、これまでに私たちが連綿とやってきた「市場の需要を探査し、それが経済的合理性に見合うものかどうか吟味し、コストの範囲内でやれることをやって利益を出す」という営みはすでにゲームとして終了しています。
これからは、アーティストが、自らの衝動に基づいて作品を生み出すとの同じように、各人が、自らの衝動に基づいてビジネスに携わり、社会という作品の彫刻に集合的に関わるアーティストとして生きることが、求められています。P.189引用
◎わたしたちに残された仕事
1.社会的課題の解決(ソーシャルイノベーションの実現)
:経済的合理性限界曲線の外側にある未解決の問題を解く
2.文化的価値の創出(カルチュラルクリエーションの実践)
:高原社会を「生きるに値する社会」にするモノ・コトを生み出す
この2つの活動は「経済的合理性」“だけ”にたよっていたのでは駆動されない。
1.社会的課題の解決は、「その問題を見過ごすことはできない、これを放っておけない、なんとかしなければならない,かつての自分のような苦しみを味わうような人を増やしたくない」という衝動に突き動かされた人によって実現されているからです。
「衝動という主人」が「スキルという家来」を使いこなすことで人類は進化させてきたわけですが、この関係が逆転して「スキルが主人になって衝動を圧殺する」状態になってしまっている、というのがいまの経済システムの問題です。この主従関係を再度、逆転して「衝動にシステムをリ・ハックさせる」ことが求められます。
P.190引用
◎遊びと労働の一体化
私たちの活動が経済的利得を得るためのインストルメンタルな手段から、その活動そのものによって喜びが得られるコンサマトリーな活動に転換することによって、「生産と消費「労働と報酬」の関係もまた、大きく変わることになるでしょう。「行為そのものが報酬になる」というコンサマトリーの定義上、「生産と消費」あるいは「労働と報酬」を。はっきりと区分して整理することができなくなるからです。
「労働」と「遊び」の境界が無効化され、「遊びと仕事」の境界が曖昧になっています。
これまでの私たちの労働に関する認識は、「辛く苦しい労働があり、その労働の対価として報酬を得る」という。まさにインストルメンタルものでした。しかし、これからやってくる高原社会では、そのような労働観解体・廃棄され、遊びと労働が渾然一体となったコンサマトリーなものとなります。
「未来のために、苦しい今を頑張る」というインストルメンタルな思考様式から「この瞬間の充実のために今を生ききる」というコンサマトリーなそれへと転換することになるでしょう。
P.203引用
◎コンサマトリーな状態≒フロー状態(ゾーン)
1.過程のすべての段階に明確な課題がある
2.行動に対する即座のフィードバックがある
3.挑戦と能力が釣り合っている
4.行為と意識が融合する
5.気を散らすものが意識から締め出される
6.失敗の不安が意識から消え失せる
7.自意識が消失する
8.時間感覚がなくなる
9.活動と目的が一体化する
創造的な人々の一致した意見は、自分の仕事に強い愛情を持っているということである。彼らを突き動かしているものは、名声欲や金銭欲ではなく、楽しみを得ることのできる仕事の機会そのものである。P.209引用
◎幸福感受性が摩耗されてしまっている
「いま、ここ」に没入して愉悦を感じられていないのであれば、それはとりもなおさず、私たちが自分の創造性・生産性を十全には発揮できていない、ということです。私たちの「幸福感受性」が、私たちの創造性・生産性を高めるためのカギだということを示唆しているわけですが、そのような感受性を多くの人々が摩耗させてしまっている。
実は創造性とは「感情に関わる能力」なのだということがよくわかります。
創造的な人々は、豊かな「幸福感受性」をもっており、興味や喜びを感じることに関わろうとする一方で、仕事に退屈を感じると「素早く荷物をまとめてその場を立ち去る」のです。そのような営みに9割以上の人がかけがえのない人生を浪費している状況なのです。
私たちはあまりにも長いこと「辛く苦しいことをガマンすれば、その先に良いことがあるよ」と学校や職場で洗脳されてきてしまったために、「いま、この瞬間の幸福」に関する感受性を著しく磨滅させてしまっているのです。結果として、この「幸福感受性」のアンテナを通電させる回路をカットし、規範に従順なロボットになることで利得が最大化されることを学習するわけですが、この感受性を回復できなければ、コンサマトリーな状態の回復など望むべくもありません。
P.211引用
◎成功は人それぞれ異なる
私たちは「今を未来のために手段化する」というインストルメンタルな思考形式に浸りきってしまっているので、寄り道せずに最短距離でゴールを目指すのが「正しい人生のあり方」だと考えてしまいがちです。
特に日本において問題と思うのは「成功者のモデルイメージ」に多様性がなく、「成功」という概念の幅が極端に狭くなっているために、皆が一線上に並んで序列の優劣を競い合うようなギスギスした状態になってしまっている、ということです。私がここでいう「幅の狭い成功者イメージ」とは、たとえば「有名大学を卒業してブランド企業に就職してバリバリ仕事をこなして年収を上げて都心の高級マンションに住んで高級外車を乗り回すようなセレブライフ」といったものですが、このようなイメージの実現に脅迫的にとらわれてしまうと、このイメージの実現に直接的に貢献しないと考えられる活動を全て「無駄」として切り捨ててしまい、結果的に本質的な意味で「より豊かで自分らしい人生」を見つける機会を逃してしまう可能性があります。
P.217引用
◎浪費や無駄が人生には必要
私たちは、自分が何に夢中になれるのかということを、事前に先見的に知ることができません。なぜなら「夢中」というのは「心の状態」なので理知的に予測することができないからです。「夢中になれること」はいくら頭で考えてもわからない。いろいろなことを行ってみた後で事後的に身体感覚として把握することでしつかむことができないからです。私たちが「知性」という言葉を聞いて普通にイメージするのとは大きく異なる「身体的な知性」が求められるのです。P.218引用
◎80%が偶然
結果的に成功した人たちのキャリア形成のきっかけは、80%が「偶然」であるということを明らかにしました。彼らの80%がキャリアプランを持っていなかった、というわけではありません。ただ、当初のキャリアプラン通りにはいかないさまざまな偶然が重なり、結果的には世間から「成功者」とみなされる位置にたどり着いたということです。
良い偶然を引き起こす条件
・好奇心
自分の専門分野だけでなく、いろいろな分野に視野を広げ、関心を持つことでキャリアの機会が増える。
・粘り強さ
最初はうまくいかなくても粘り強く続けることで、偶然の出来事、出会いが起こり、新たな展開の可能性が増える。
・柔軟性
状況は常に変化する。一度決めたことでも状況に応じて柔軟に対応することでチャンスをつかむことができる。
・楽観性
意に沿わない異動や逆境なども、自分が成長する機会になるかもしれないとポジティブに捉えることでキャリアを広げられる。
・リスクテーク
未知なことへのチャレンジには、失敗や上手くいかないことが起きるのは当たり前。積極的にリスクをとることでチャンスを得られる。
P.220引用
◎お客さんに喜んでもらうのが嬉しい
“真に応援したいモノ・コトにお金を使う”
経済は、定常状態(一定の機能を保って変わらないこと)の経済がめざされ、小規模の社会主義、小規模の資本主義、直接の物々交換とが混じりあった経済になるだろう。消費者(コンシューマー)社会ではなく、保存者(コンサーヴァー)社会が生まれ、資源の浪費は極力避けられ、可能な限り地域の自己充足がめざされるだろう。利益をそれ自体目的として考えることはほとんどなくなるだろう。他人や天然資源に対しても、搾取や儲けでなく、調和を念頭に置いて接するようになるだろう。
「生産」と「消費」が分断された構造が、現在の殺伐とした社会をつくり上げる要因になっていると考えています。そもそも労働から得られるもっとも純度の高い報酬はなんでしょうか。それは自分の労働によって生み出されたモノ・コトによって喜ぶ人を見ることでしょう。多くの人は、労働によって得られる対価の筆頭として「金銭的報酬」を考えますが、なぜこのような不健全な状況になってしまったかというと、自分の生み出した価値を受け取って喜ぶ人を直接には見ることができない社会構造になってしまったからです。
「生産者」と「消費者」の接触面積を拡大し、両者を「顔の見える関係」にすることで、「労働の喜び」を回復していくことが重要な課題でしょう。
喜ぶ生産者を見ることはまた、消費者にとっても喜びでもあるからです。
P.235引用
◎「労働価値説」・・・なにか変だぞ?
「誰でも自分の体は自分の所有物だといえる、そして労働はその身体を通じて行われる、したがって労働の結果生み出された価値はその人のモノであり、その価値と交換することで得られたお金もその人のモノである、したがってそのお金は自由に使って構わない・・・とこれはマルクスも同じです。一読して「何か変だぞ?」と思う人がほとんどでしょう。このロジックのどこに問題点があるのか。違和感の起点は、最初の命題、つまり「自分の身体は自分の所有物だ」という一文にあります。~中略~ 要するに「宇宙から与えられた」としか言いよう奈ないものです。本来は贈与された身体を「自分のモノ」とすり替えて論理を積み上げているのでおかしなことになってしまっているわけです。私たちの存在は「死者」と「自然」から贈与されています。贈与されたモノは贈与し返さないといけません。私たちもまたいずれ「死者」あるいは「自然」として未来に生きる私たちの子孫に対して贈与する義務を負っているからです。多くの人々は、私たちが「贈与された」ということを忘れてしまいがちです。「贈与が大事だということはわかったけれども、では具体的にどのようにすれば良いのか?」大事なことは一点だけ、それはできるだけ「応援したい相手にお金を払う」というこを心がけるということです。
P.243引用
◎ひっくり返す必要がある
「責任ある消費」という考えが重要になってくるのです。なぜ「責任」なのかというと、私たちの消費活動によって、どのような組織や事業が次世代へと譲り渡されるか、が決まってしまうからです。私たちが、自分たちの消費活動になんらの社会的責任を意識せず、費用対効果の最大限ばかりを考えれば、社会の多様性は失われ、もっとも効率的に「役に立つモノ」を提供する事業者が社会に残るでしょう。そのような大企業が社会を牛耳ることに批判的な人も多いのですが、彼らがあのような大きな権力を持つに至ったのは、なんのことはない、私たちがその事業者から多くのモノやコトを購入しているからです。これをひっくり返させば、市場原理をハックすれば。私たちが残したいモノやコトをしっかりと次世代に譲渡していくことが可能だということです。
P.248引用
◎小さく、近く、美しく
ここでカギとなるのがより「小さく、近く、美しく」というベクトルです。すでに指摘したことですが、近代社会において発展した経済は、基本的に普遍的な物質的問題」を解消することで発展しましたから、その過程で多くの大企業を生み出すことになりました。普遍的問題というのは顧客が全地球上にあまねく存在するということですから、スケールメリットを活かしてできるだけ長いバリューチェーンを築き、同じモノを大量に生産することが競争にとても有利だったからです。
その結果、今日の私たちの社会には「大きく、遠く、効率的」にという脅迫的価値観が拭い難くはびこることになりました。この脅迫は当然のことながら微成長が常態となる「高原社会」では精神疾患の原因となりますし、何よりも「活動から得られるコンサマトリーな喜び」を排除する原因となります。
ここでカギとなるのが、より「小さく、近く、美しく」という逆方向のベクトルの回復です。「顔の見える関係による喜びの交換」がバリューチェーンからバリューサイクルへの転換の目的だとすれば、私たちの経済もまた、ここ200年のあいだに眦を決するようにして(目を見開くさま、怒ったり決心したりする時の顔つき)、追いかけてきたより「大きく、遠く、効率的」にという価値観から脱却して、より「小さく、近く、美しく」へと物差しを逆転しなければなりません。
~中略~
たとえば、物理的なモノではなく、その地域の中で循環する経済システムこそが地域の豊かさを維持するうえで重要なんだ、ということです。
P.249引用
◎ちえじんの課題、経済的な安定性に関する懸念(自己の実現で、営業利益をつくる)
私はここまで、私たちの高原社会における経済は、私たちの人間性に根ざした衝動によって駆動されるコンサマトリーなものに転換させよう、と主張してきましたが、この転換を成功させるためにはUBI(ユニバーサルベーシックインカム)の導入が必要だと考えています。というのも、すべての人があたかもアーティストやダンサーといった人たちが衝動に突き動かされて作品やパフォーマンスを生み出すのと同じように、活動そのものから愉悦や充実感を覚えることができるコンサマトリーな社会を目指すにあたって、経済的な安定性に関する懸念が阻害要因になると考えられるからです。
私たちの高原社会が抱えている課題の多くのは、経済合理性限界曲線の外側に存在しており、必ずしも解決によって大きな経済的利得が得られることが保証されていません。このような課題に社会全体が果敢にチャレンジしていくためには、結果がどうであっても、どのみち生きていくことに困ることはない、というセイフティネットが必要になります。社会的イノベーションを成功させるためにもっとも重要なポイントは、社会全体としてのチャレンジの「量」を高い水準に保つことにあるからです。アイデアの「質」を左右するもっとも重要なファクターは、アイデアの「量」です。
創造性というのは偶発的で予定調和しないという特徴をもっているからです。
~中略~
失敗を気にして慎重になることで「取り組みの量」が減ってしまえば、結果的に「質」もまた劣化してしまうことです。失敗はできるだけ避けたいと考えていますが、これまで紹介した考察は、そのような「いいとこ取り」できないということを示しています。
高原社会においてソーシャルイノベーションを力強く推進していくためには、一も二もなく、とにかく「取り組みの絶対量」を増やしていくしかありません。このような取り組みの結果として路頭に迷い、生活を破綻させてしまうような不安が拭えない状況では、取り組みの絶対量を増やしていくことは難しいだろう、ということです。
自分の生活が破綻してしまうかもしれない、という切実な懸念を抱えているような状況にある人が、ソーシャルイノベーションのための素晴らしいアイデアを次々と生み出せるとは考えられません。金銭に関する悩みは脳の処理能力をものすごく食うので、一度、経済的な心配が必要な状況になってしまうと、なかなかそこから脱することができません。いわゆる「貧困のスパイラル」に絡めとられてしまうわけです。
P.253引用
◎不確実性が高まる?!
高原社会においては「価値創出の不確実性が高まります。20世紀半ばのように、世の中に多くの不便・不満・不安・不快が存在しているのであれば、それらを解決するモノ・コトを生み出せば、そこは大きな経済価値が生まれました。目の前にあからさまな問題があったわけですから、自分たちの生み出したモノ・コトがどれくらいの人に受け入れられるかは事前にある程度予想することが可能であり、その点で「価値創出の確定性」はとても高かったと言えます。
しかし、これからやってくる高原社会では、事前にモノ・コトの価値の大きさを先見的に知ることが難しくなります。多くの活動が「役に立つモノ・コトを生み出す」ことから、「意味のあるモノ・コトを生み出す」ことへと転換するので、「生み出す価値のバラツキ」が大きく高まるのです。
P.259引用
◎報酬とは
高原社会での労働は、このようなインストルメンタルなものではなく、労働そのものが喜びや生きがいとして回収される、労働と報酬が一体化したコンサマトリーなものへと転換します。そのような社会において、仕事の結果として得られる報酬の位置づけは大きく異なることになるでしょう。
これは逆に言えば、UBIの導入によって「辛い仕事だけど給料を得るためには仕方がない」というインストルメンタルな職業観をもつ人々を、現在の仕事から引き剥がし、本人がもっとも楽しさと生きがいを感じられるコンサマトリーな職業へ転換させることもまた狙っているということです。
P.263引用
◎感情が大事
私たち人間が「感情」を獲得したのは、これが生存と繁殖に必須だったからです。これを逆に表現すればつまり、感情を押し殺すようにしてインストルメンタルな生き様を志向することは、むしろ生物個体としての生存能力・戦闘能力を毀損することになる、ということです。生きがいも楽しさも感じられない仕事に、給料が高いからという理由だけで携わっているのは、本質的に生命としてのバイタリティを喪失することになるのです。
ここで問われなければならないのは、経済成長や生産性への貢献ではなく、そもそも「人間にとって、生きるに値するいい社会とは、どのような社会なのか?」という問いであるべきです。
P.265引用
◎貧しい豊かさのど真ん中で生きてきた、大反省。
なぜ、私がここまで「社会の構想」にこだわるのかというと、「構想の貧しさ」はそのまま「行為の貧しさ」につながるからです。
いたずらに経済成長だけを求めるよりも、格差を是正し、自然・芸術・文化に誰もがアクセスでき、本質的な意味でより瑞々しい生活を皆が送れる社会のイメージです。
~大阪万博で紹介された人間洗濯機の事例~
あらためて考えてみたいのが、この発想の「貧しさ」です。私たち日本人にとって、入浴という営みは「身体を清潔に保つ」という日常生活上の必要をはるかに超えた過剰な悦楽のために洗練された文化でしょう。なんと豊かさとは縁遠い、貧しい発想でしょうか。
1970年前後に日本は「文明化の終了」というフェーズに入りつつあった、とうことは指摘しました。まさにその時期にあって開催されたのが大阪万博であり、だからこそそれまでの延長線上とは異なる「新しい進歩」を示すことがテーマとして設定されたわけですが、実際に提案された「進歩」を見るにつけ、その構造の貧困さには心底ガッカリさせられます。そのまでひたすらに「文明化=役に立つこと」によって価値を生み出してきた人々は、その先の未来として「もっと役に立つ、もっと便利なものがある生活」という「貧しい豊かさ」しか構想できなかった、ということなのです。これは何を言っているのかというと、社会というのは意識的に構想を描かなければ、それまでの慣性と惰性にしたがって延長線上を走り続けてしまう、ということなのです。
大阪万博の当時を生きた人にとって、その時に強く働いていた慣性は「文明化」でした。それは「もっと便利に」「もっと効率的に」「もっと短時間に」というベクトルでの進歩を推し進める力として働きます。だからこそ、大阪万博で示された「未来の社会」は、風呂が自動になり、台風は水爆で消され、蛇口からジュースが迸り、新聞が壁から出てくるという、ことごとく「快適で便利」なモノとして描かれていました。しかし、もはやこのような「便利さ」に私たちは大きな豊かさを感じなくなっている一方で、真逆の方向である「情緒やロマンを伴う不便さ」にこそ、人は大きな豊かさを感じるようになってきています。そのような現在を踏まえたうえであらためて大阪万博の提案を顧みればみるほど、未来構想ということの難しさと重要性が思い知らされます。
P.278引用