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2023.04.23 書棚

14歳からの哲学 ~考えるための教科書~

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14歳からの哲学
~考えるための教科書~
池田晶子 著 2003年3月20日発行

内容

人には14歳以後、一度は考えておかなければならないことがある。 言葉、自分とは何か、死、心、他人、家族、社会、理想と現実、友情と愛情、恋愛と性、仕事と生活、本物と偽物、メディアと書物、人生、善悪、自由など、30のテーマを取り上げられてあります。
かなり”原理的”なところから、ものごとの考え方を説き起こされていると思います。この本は、全国各地の学校で、副読本として採用されていると当時マスコミでも紹介されていました。著者の池田晶子さんは、教育環境の退廃ぶりに目を覆うものがあり、子供たちが気の毒だと、憂いておられたようです。次の言葉を残されています。「子供たちが、せめて自ら考える力に目覚めることで、不幸な時代を生き抜く意味に気がつけばと願うものです。受験の役にはたちませんが、人生の役には必ず立ちます。」と書かれていました。“考える”ことが必要なのに、“考える”ことから遠ざけられていたような気がしました。本の帯には、「人は14歳以後、一度は考えておかなければならないことがある。」とあります。何歳からでもいいし、自分と向き合うきっかけになるのもいいと思います。現代物理学と哲学の融合が感じられ、ちえじんの社内でも課題図書として学ばせてもらっています。

感じたこと、気づかせもらったこと

振り返り 引用

1.考える[1]

生きていることが、素晴らしいか、つまらないのか、どちらなんだかよくわからない。~中略~自分がそう思っているから、そうなっているってことなんだろうか。そうだ、その通りだ。~中略~ 何とも言えず不思議な感じがしているんじゃないのかな。いったい何が不思議なんだろう。その不思議な感じを、自分の中へ、ずぅっと追いかけていってみてごらん。不思議な感じの出てくるところを、きっと見つけられるはずだから。誰か見つけたかな。そう、不思議な感じの出てくるところは、「自分が、思う」というこのことだ。自分が思う、自分がそう思う。何かについて自分がそう思っているという、このことだ。(P.3. L.2)

逆から言うと、彼らでない君は、自分が思うことができるということだ。「自分で思う」ことができるということだ。それなら君は、つまらないことをつまらないと思わないこともできるはずじゃないだろうか。もちろん実際にそれができるようになるのはとても大変なことだ。でも、思っているのはいつでも自分だって、「一番肝心なことを忘れずにいるなら、いつかきっとできるようになるはずだ。そうなった時は、きっとこう思うだろう。生きていることはつまらないって、ただ自分でそう思ってたにすぎないなって。(P.4. L.9)

ただ自分で思っているだけではない本当のところは、どうなんだろう。生きているということは、本当は、素晴らしいことなのか、つまらないことなのか、どっちが本当のことなのか。~中略~その「ただ思う」ということから一歩踏み出して、「考える」ということを始めているんだ。「自分が思う」ということはいったいどういうことなのか。「考える」ということを始めているんだ。(P.8. L.2)

どうしても知りたくなるよね。だから人は、考えるんだ。わからなくて不思議なことを、それが本当なのかどうかを知ろうとして、「考える」ということを始めるんだ。これはそれまでの、ただなんとなく「思う」こととは全然違うことなんだ。(P.8. L.15)

そもそも「悩む」っていうのは、どういうことなんだろう。悩むっていうのは、どうすればいいのかわからないっていうことです。もし本当にそれがわからないことだったら、君は悩むのではなくて、考えるべきなんじゃないだろうか。あれこれ思い悩むのではなく、しっかりと考えるべきなんじゃないだろうか。考えるというのは、それがどういうことなのかを考えることであって、それをどうすればいいのかを悩むことじゃない。それがどういうことなのかを考えてわかっていなけりゃ、それをどうすればいいのかわからなくて悩むのは当然じゃないか。生きているとはどういうことなのか。「生きている」ってそもそもどういうことなんだろうか。(P.9. L.5)

▶【考える】とは、それが本当なのかどうかを知ろうとすること。それがどういうことなのかを知ること。漠然と思うことではなくて、正確に知ること。
考えることによって、誰にとっても正しい定規を手に入れることができる。

※本当のことを知れば、どうすればいいのかがわかる、悩まなくて済む。
誰にとっても正しいことが、「正しい」ということの本当に意味(P.35. L.1)

2.考える[2]

自分では正しいと思っているんだけど、本当は間違っているという場合は、どうしたものだろう。(P.13. L.10)

本当に正しいことなのかどうかを知るためには、考えるということをしなければならないんだ。(P.14. L.4)

人は、自分が思っていることが正しいことなのかどうか、常に「考える」ということをするわけだ。(P.14. L.15)

「本当にそう思う」ということと、「本当にそうである」ということは、違うことだと覚えておこう。本当にそうであることは、間違ったことじゃない。やっぱりそれは「正しい」ことだということだ。(P.15. L.13)

君は今、「正しい」という言い方で、どういうことを言おうとしているのだろうか。(P.16. L.2)

人は、「考える」、「自分が思う」とはどういうことかと「考える」ことによって、正しい定規を手に入れることができるんだ。自分ひとりだけの正しい定規ではなくて、誰にとっても正しい定規、たったひとつの正しい定規だ。(P.16. L.13)

あるんだ。どこに?君が、考えれば、必ずそれは見つかるんだ。考えることこそが、全世界を計る正しい定規になるのだとわかった時に、君は自由に考え始めることになるんだ。(P.16. L.13)

3.考える[3]

お互いの自由を尊重して、適当に譲り合ってって、まあそんなふうな具合にね。確かに、それもひとつの生き方である。~中略~ 君は、本当のことを、本当のことだけを知りたいと思わないか。~中略~ もしも本当のことを知っていたなら、そんな中でも、とても力強く生きてゆけるはずだって、予感がしないか。本当のことを知るためには、正しく考えることが必要だ。「正しい」ということは、自分ひとりに正しいことではなくて、誰にとっても正しいことだと、わかってきたね。(P.18. L.4)

この世の中には、当たり前なことよりも不思議なことは存在しない。(P.22. L.9)

君は、誰にとっても正しいことを、自分ひとりで考えてゆけばいいんだ。なぜって、それが、君が本当に生きるということだからだ。(P.23. L.16)

4.言葉[1]

物が先か、言葉が先か、どっちだろう。(P.26. L.1)

言葉の意味というものは、目に見えて手でさわれるこの現実の世界には、存在しないということなんだ。意味というのは別の世界に存在するものなんだ。(P.28. L.10)

言葉というものは、現実に存在する物をいうだけではなくて、現実には存在しない物のことをいうことができるんだ。(P.28. L.15)

謎の核心は、その言葉はその言葉以外のことを意味しない。(P.29. L.7)

その言葉は、その言葉以外のことを意味しない。その言葉で思い浮かべるあれこれは、人によって全部違うけれども、意味というものは、絶対に共通のものなんだ。(P.29. L.13)

5.言葉[2]

世の中に存在する物には名前があって、人は当たり前にその名前でその物を呼んでいるけれども、物と名前の関係は思っていたほど単純ではないと、わかってきたね。

これは、物の名前、何か目に見える物の名前だけでなくて、目に見えないことを言う言葉の場合でも、同じことなんだ。目に見えないことというのは、思いや感じや考えのことだ。(P.31. L.1)

思いというものは目に見える物ではないという、それだけのことだ。(P.31. L.8)

誰にとっても正しいことが、「正しい」ということの本当に意味だと「考える」の章でわかったけれども、それは「正しい」という言葉が、そもそも違う正しさを意味しないからなんだ。正しいと思っていることは人それぞれ違うけれども、「正しさそのもの」というのは、すべての人に共通しているものなんだ。(P.35. L.1)

人の数だけ人がいるのに、言葉の意味はすべての人に共通してたったひとつなのは、なぜなんだろう。なぜ、その言葉はその意味だということがわかるのだろう。

言葉というものは、自分の中にあると同時に、自分の外にある。そういう不思議な存在なんだ。(P.36. L.4)

言葉こそが現実をつくっているという本当のこと。

目に見える物は、目に見えない意味がなければなく、目に見えないこともまた、目に見えない意味がなければならない。「犬」という言葉がなければ、犬はいないし、「美しい」という言葉がなければ、美しい物なんかない。それなら、言葉がなければ、どうして現実なんかあるものだろうか。(P.36. L.9)

言葉を読むと、~中略~ ありありと目前に浮かんでくるということを。そもそもこの世に存在してさえいなかったりするそれらのものの姿や形を、どうして「見る」、思い浮かべることができるのだろうか。目の前にあるのは、紙に印刷されたただの活字の行列にすぎない。なのに、それを読めば、なぜそんなものがそこから出現することができるのだろう。(補足 14歳の君へP.150. L.3)

辞書をどこまで引いていっても、言葉の意味、「意味そのもの」にたどりつくことは決してできない。ということは、辞書には言葉の意味は書いてないということだ。じゃあ、言葉の意味はどこにあるんだ。「どこにある」と問うてみれば、気がつくだろう。意味なんてものは「どこにもない」。目に見えない、耳に聞こえない。ましてや手で触れるものではない。にもかかわらず、言葉の意味は、読めば、聞けば、「わかる」んだ。さて、言葉の意味はどこにある?(補足 14歳の君へP.152. L.9)

意味は、自分ひとりのものではなく、他の誰にも共通するものでなければ、意味にはならない。言葉の意味は、物より前に存在していたのでなければおかしいじゃないか。物より前に存在していた意味って、いつから存在しているんだ。それがまさしく、「世の初めから」というそのことなんだ。言葉の秘密とは世界成立の秘密だといった、そのことなんだ。(補足 14歳の君へP.154. L.1)

見えたり触れたりする物質的存在ではないからこそ、時空を超えて今ここに存在するんだ。だからこそ、読んで、聞いて、「わかる」んだ。これは全く奇跡的なことじゃないか。君が、言葉を読んだり聞いたり話したりするたびに、それを理解するたびに、それは世界の創造に立ち会っているということなんだよ。(補足 14歳の君へP.154. L.10)

「初めに言葉ありき」。これは聖書の言葉だ。言葉の奇跡に気がついた昔の人は、やっぱりそんなふうに言っている。「言葉は神であった」。つまり、言葉が世界を創ったんだとね。(補足 14歳の君へP.154. L.15)

世界とは物質であり、目に見える世界だけを世界だと思っているんだ。だけど目に見える物より前に、目に見えない意味があるのでなければ、どうして世界意味あるものになるのだろう。(補足 14歳の君へP.155. L.4)

言葉こそが世界を創っているということを理解できなくなっている現在人は、言葉は人間の道具であって、人間が言葉を使っているのだと思うことになる。これは完全は間違いだ。だって、人間が言葉を創ったのではないのだから。人間が創ったのではないものが人間の道具であるはずがない。ましてや自分勝手に使える道具であるはずがないんだ。~中略~ 言葉が人間を支配しているということだ。(補足 14歳の君へP.155. L.7)

言葉は人間を支配する力をもつから、それを言う人を、必ずそんなふうにしてしまうものなんだ。~中略~ 言葉はやっぱりその人の本当を示すんだ。もしも君が自分の人生を大事に生きたいと思うなら、言葉を大事に使うことだ。世界を創った言葉は、人間を創るということを、よく自覚して生きることだ。(補足 14歳の君へP.156. L.9)

6.自分とは誰か

たぶん三つくらいの時に、突然気がつくんだ。あっ自分だ!~中略~ 自分であるということに気がつくのと、言葉を話し始めるのと同じ頃だというのも、面白いことだ。物ではなくて言葉が世界を作っているってこと、「言葉」の章で少しわかったと思うけど、その言葉を話しているのは自分なんだから、世界を作っているいるのは、じつは、自分なんだ。子供が言葉を話し始めるってことは、世界を作り始めるってことなんだ。(P.39. L.10)

正確には、ただ自分だったんだ。名前より先にあるもの、名前ではない別のもの、まだ何ものでもない何ものかだったはずなんだ。このことを、これから考えていくうえで、「感じ」としてでいいから、ずっと忘れないようにしてください。これからの一生、「自分とは何か」を考える時には、必ずこの原点に戻って考えることになりますから。(P.40. L.9)

「私」とは、自分を指示するための代名詞なんだ。これを逆から言うと、代名詞「私」によって指示されているところの自分というのは、代名詞「私」よりも先にあるということだ。その自分こそが、名前でも代名詞でもない、自分であるところのもともとの自分なんだ。(P.41. L.5)

間違った思い込みは、自分を名前だと思うところから、次第に広がってゆくことになる。世界に存在する物には名前があるから、犬や自動車が存在するのと同じ仕方で、自分という物も存在している思ってしまうんだ。でも、これは違う。だって、自分はその名前のことじゃないんだから。
世界には、他人という物が存在すると知ることも、思い込みを強めるだろう。世界に他人が存在するのと同じ仕方で、自分という物も存在していると思うんだ。でも、これも違う。だって自分は他人じゃないんだから。(P.41. L.17)

何かを自分であることを正解にするとしても、その自分とは何かという問いは、どこまでも残るからだ。~中略~ 「自分とは何か」を正しく考えてゆけば、必ずこういうわけのわからないことになるからだ。~中略~ 「わからない」と感じることを、どこまでも考えてゆくようにして下さい。「わからない」ということは、答えではなくて、問いなのです。(P.43. L.9)

7.死をどう考えるか

目に見える物の集まりとしての体、それが動かなくなったのを見て、「死んだ」と言っているわけだ。そして、それを「死体」と呼んでいるわけだ。~中略~ 死体と死とは、同じものではないということなんだ。(P.46. L.5)

目に見える死体は、燃やせばなくなる。でも目には見えないもの、思いや感じや考えは目には見えないことを、「言葉」の章で理解したけど、それらをまとめて「心」と言うとして、では心としての誰それさんは、どうなったのだろう。目には見えないものが、なくなったのかどうか、そもそも目には見えないのに、どうしてわかるのだろう。(P.47. L.16)

生死の不思議とは、実は、「ある」と「ない」の不思議なんだ。人は「死」という言い方で、「無」ということを言いたいんだ。でもこれは本当におかしいことなんだ。「無」ということは、「ない」ということだね。「無」とは、「ない」ということだね。無は、ないから、無なんだね。それなら、死は、「ある」のだろうか。「ない」が、「ある」のだろうか。死はどこにあるのだろうか。死とはいったい何だろうか。

君は、たぶん死ぬのが怖いと思っているだろう。死んだら何もなくなるんじゃないかって。でもなにもなくなるというのは「ない」はずだ。なぜって、「ない」ということは「ない」からだ。じゃぁ、なぜ「ない」ものが怖いんだろう。ないものを怖がって生きるなんて、何か変だと思わないか。(P.50. L.3)

8.体の見方

外見の体、外から見る体。内から見る体、身体の内側には目がついていないのだから「感じる」体。要するに、ぶたれたら痛いところのその体だ。~中略~ 君が意志(考え、意向)して君を生きているというわけじゃないんだ。~中略~ 体は自然が作ったものだ。それ以外の答えがあるかい?君が生きているその体、その生命は、君が作ったものなのかい?~中略~ 現代人は、体は自然が作ったものだ、体はそれ自体が自然なんだということを忘れて、体は自分のもので、自分の意志でどうこうできるし、また、してもいいものだと思うようになっている。自然の体を忘れて、外見だけを体だと思うようになったんだ。(P.53. L.15)

自然物である体を生きているところの君とは誰なのかについてだ。あるいは、体は、君なのか、それとも君のものなのか。(P.55. L.16)

体というのは、見えるけれども見えないという不思議な二重のあり方をしている。自分がそれであることの謎も、どうもこのへんにあるようだ。
思いや感じや考えは目には見えない。それを「心」と呼ぶとするなら、目には見えない体とは、じつは、心のことではないだろうか。見える物の側からみれば体、見えないものの側からみれば心、心と体というのは、どちら側から見るかという、二つの見方のことなんだ。体と心は、ひとつのものの二つの側面なんだ。(P.56. L.12)

心とは体なんだから、心の思うように体は実はなっているはずなんだ。目に見えない心の、目に見える形が。体だからだ。人が、体は思うようにならないと思う時、その人は、外見だけの体だけを体、何か自分の所有物か道具みたいに思っているという勘違いをしているんだ。でも、自分の所有物は自分ではないんだから、それが自分の思うようにならないのは当然じゃないだろうか。(P.57. L.4)

9.心はどこにある

目に見える脳の目に見えない働きが、意識つまり心だとする科学の説明は、半分だけ正しい。嬉しい時には脳内にエンドルフィンという物質が分泌されるというあの説明だ。実際にそれは確認される事実だからだ。~中略~科学は目に見える物によって目に見えない心を説明しているにすぎないということを、常に忘れないようにしよう。説明は決して解答じゃないんだ。科学は物質を指して、それが心だと言っているわけじゃないんだ。~中略~遺伝子で決まっているんだから仕方ないって一生をあきらめるなんて、もったいないじゃないか。~中略~ 科学に説明されなくたって、君は、心というものがある。心が心であることがちゃんとわかっているからね。
心というのは、目に見える物ではなくて、目には見えないもの、「これが心だ」という仕方で示すことのできない、もっと捉えどころのない、もっと不思議なものなんだ。(P.58. L.12)

心とは、すべてなんだ。体のどこかに心があるのではなくて、心がすべてとしてあるんだ。君の心が、人生のすべてをそんなふうにしているんだ。だから、心のことは人生の基本、物より心を大事にしなさいと、昔から人々が言ってきたのは、確かに根拠のあることなんだ。(P.61. L.1)

もともとの君というのは、性格や感情とは別のもの、決して動いたり変わったりすることのない何かなんじゃないだろうか。

目に見えないもの、思いや感じや考えのことをひとまとめにして「心」と呼んでいるけれど、同じ見えないものの中でも、動いて変わる部分と、動きも変わりもしない部分とがある。前者が感情。後者が精神だ。感情は感じるもので、精神は考えるものだ。移ろい変わる感じや思いについて、動かず観察、分析して、そのことがどういうことなのかを考えて知るのが、精神というものの働きだ。
心のこの部分があるからこそ、人は、変わらないと思っている性格を変えることもできるのだし、その時その時の気分や感情に流されないですんでいるんだ。(P.61. L.17)

考える精神によって、冷静に観察してごらん。気分や感情というものは、それ自体が面白いものだ。どこからかスーッとやってきて、またどこかへスーッと消えてゆくんだ。決して目に見えるものではないけれど。何かそれ自体が別の世界からの訪れであるかのように感じることもあるのだろう。友達が感情に駆られて行動しているさまも、観察してごらん。彼は彼でありながら、彼でないものによって動かされているように見えるね。その見えない力はどこからやってくるのだろう。やってくる思いや感じや考えは、どこからやってくるのだろう。

「自分である」ということは、こんなふうに、見える体の側から考えても、見えない心の側から考えても、いや考えれば考えるほどに、奥が深くて底が知れないものなんだ。何を「自分」と言えばいいのかわからなくなるほど、すべてに広がってゆくものなんだ。すべて、そう、宇宙の果てまでね。宇宙に果てがないのは、自分に果てがないのと、じつは同じことだったとしたら、どうする?(P.62. L.14)

外見の体や、くるくる変わる気分なんかを自分だと思っているなら、そんな自分なんて、宇宙に比べりゃ、あんまり大したことないと思わないか、何を自分と思っているかで、その人の自分は決まっているんだ。可笑しいね。(P.63. L.10)

全然わけがわからなくなりましたって言うなら、君、大成功だよ。わからなくなったらからこそ、これから考えられるんだ。悩まないで、考えてゆけるんだ。「心の悩み」なんて言っている場合じゃないって、気がついただろう。だって、悩んでいるその心とは何なのか、君は、まるっきりわかってないと、わかったんだからね。大丈夫、考えてゆけるよ。だって、君には考える精神があるからだ。(P.63. L.13)

10.他人とは何か

むろん、他人に言われたことに腹を立てたり、他人のすることを笑ったりしているのは、まったく無駄な時間だ。そんなことをしている暇に、自分のことをした方がいい。(P.64. L.4)

問題はこれだ。何を「自分」と言うのがわからなければ、何を「他人」と言うのかも、わからないはずではないだろうか。
「自分」というのは、名前でなければ、身分でもない、心でもない。ないないづくしで、どこにもない。それが「自分」というものだけど、だからといって、自分など「ない」というにでもない。なぜって、自分など「ない」と言っているその自分が、まさにそこに「ある」からだ。ないけれどある、あるけれどない。それが「自分」というものの正体、その存在の不思議さなんだ。何を「自分」と思うかで、その人の自分は決まっているというのも、この意味だ。「自分が、思う」ということの自由と不自由、これに気がつくころが本当の自由ということ。(P.64. L.9)

「自分とは何か」の章で考えたことを思いだそう。自分であるところのもともとの自分は、ただ自分だったんだね。ただ自分であるということは、他人がいるから自分であるのではなくて、他人がいてもいなくても、他人がいるかいないかに関係なく、その自分としてあるということだ。自分が自分であることに気がつくことができるのは、それ以前に、自分が自分であったからでしかない。他人の存在は、自分が自分であると気づくためのきっかけにすぎない。自分の存在は他人の存在に少しも依ってはいないのだから、その意味で、自分というのは絶対的な存在なんだ。~中略~ そういう頼りない存在であるところの君、そのもともとは何なのかという話をしているのだから、決して間違えないように。(P.66. L.8)

自分が絶対的であるというのは、考えているのは自分だし、見ているのも自分である、自分でないものが考えたり見たりしているということはありえない、そういう意味で絶対的だということだ。この自分を「大きい方の自分」と呼ぶことにしよう。中学三年生の君は「小さい方の自分」だ。(P.67. L.4)

君は驚くと思うけど、この意味で、「世界」つまりすべてのことは、この大きい自分の存在に拠っている。自分が存在しなければ、世界は存在しないんだ。自分が存在するということが、世界が存在するということなんだ。世界が存在するから自分が存在するんじゃない。世界は、それをみて、それを考えている自分において存在しているんだ。つまり、自分が、世界なんだ。(P.67. L.8)

自分が世界であり、世界は自分において存在しているのだから、当然、他人というものの存在もそうだということになる。世界にはたくさんの他人が存在していて、それぞれに生きているけれども、それらはすべて、自分が見ているその光景だ。(P.67. L.17)

「自分が存在しない」ということは「ない」、ということも、先がついたことだったね。だから、やっぱりすべては存在するんだ。存在しないということはなくて、世界も他人も存在するんだ。すべてが自分として存在するんだ。なぜなら、自分でないものが存在するということないからだ。(P.68. L.5)

自分は自分でしかないことによってすべてである。矛盾しているように聞こえるけれども、これも自分というものの存在の仕方の真実だ。矛盾というのはそれ自体が真実であるということも、ちょっと覚えておくと役に立つでしょう。自分はすべてなんだから、すべては自分である。これは矛盾でないからわかるね。「すべて」というのは、文字通り、すべてのことだ。他人も、他人の体も他人の心も、全世界、全生物、全宇宙、つまり森羅万象だ。大きい方の自分の、いちばん深いところでは、自分はすべてであり、また事実すべてとつながっているということだ。(P.68. L.15)

他人の痛みはわからない、他人の心もわからないのは、それは小さいほうの自分からしか見ていないからだ。小さい自分は、それぞれ別々の人間だからね。でも、他人が痛がっているのを見て、痛そうだなと思う、悲しんでいるのを見て、一緒に悲しくなる、これだけでもずいぶん不思議なことじゃないだろうか。そのとき、人は、どこかで、その人は自分だと知っているんだ。大きい自分で小さい他人同士はつながっているからだ。大きい自分のう~んと深いところまで到達しているような人、たとえばお釈迦様とかキリストとか、そういう人なら、他人の痛みも他人の心も、自分の痛み自分の心として、きっと一瞬でわかってしまうに違いない。(P.69. L.4)

「メビウスの輪」を知っているね。内側を辿って行ったら、そこは外側だったのいうあれだ。君は、「自分の内側」と言った時、体や心の内側のことを思うね。でも、その内側が、外側の自然法則や快感原則によって動いているのなら、その内側って、じつは外側のことじゃないだろうか。内って、外なんじゃないだろうか。

「自分の内」「自分の外」なんて、よく考えれば、決してできないことなんだ。なぜなら、すべてである自分には、内も外もないからだ。じゃあ、「自分の外に存在する他人」という言い方で、人は何を言っていることになるのだろうか。(P.69. L.11) 【快感原則】人間が快楽を求め苦痛を避けること

11.家族

君は、誰からも生まれたのでもないという不思議な事実(P.73. L.9)

他人と他人のことこの不思議な出会いの感動を忘れて、君のことを自分の子供だと思いこんでしまう。(P.73. L.16)

人間の親としての役割は、人生の真実を教えるということのはずだ。子供よりも先に人生を生きている者として、何が危険か、何が大事か、人はどのように生きるべきなのかを教えるという役割であるはずだ。真実とは何かを考え、それを言葉で人に教えることができるのは人間だけなんだ。(P.74. L.13)

君は自分で考えることができるんだもの。親に言われることを、そのまま信じ込むのではなくて、それが正しいか正しくないか、自分で考えることができるんだもの。それが君がこれから独り立ちするというまさにそのことなんだ。(P.75. L.7)

頭から反発するんじゃなくて、どうしてそうなのか、どうしてそうするべきなのか、どうしてそうするべきでないのかを、自分で考えて、判断するんだ。(P.75. L.12)

完全な親であることができるのは、動物の親だけだ。なぜなら、彼らの目的は生命を全うすることだけだからだ。でも、人間はそうじゃない。生命としての人生をどんなふうに生きるのか、それを考えてしまうからだ。人生の真実とは何なのか、死ぬまで人は考えているのだから、その限りすべての人間は不完全だ。(P.76. L.13)

お父さんやお母さんの気に入らないところ、ダメだなぁと思うところを、ああ、そういう人なんだなと思って、受け容れてみてごらん。そして、この人はどうしてこういう人になったのだろうと、彼らの人生を想像してみてごらん。それこそが、子供が親から学ぶことのできる人生の真実なんだ。親が子供に教えようとして教えることなんかより、ずっと深くて、ちょっと哀しいものなんだ。

(P.77. L.1)

【受け入れる】外からこちらに向かってくるものを支え止めて自分の側へ移すこと

【受け容れる】自分に向かってくるものや主張などを承知して聞き入れること

家族というのは最初の社会、他人と付き合うということを学ぶ最初の場所だ。(P.77. L.14)

なぜ、よりによって、君は君の親のところに生まれてきたのかというこのことだ。理由がないという意味では、まったくの偶然だ。でも、偶然なのにそうだったという意味では、これは確かな縁(えん)なんだ。他人の他人の「親の子の縁」、人生の意味も、ここから考えていくと、意外と面白いことになることに気がつくはずだ。(P.78. L.1)

12.社会

人が肉体をもってこの世に生まれてくるということは、ある意味では、社会の中に生まれてくるということなんだ。なぜなら、もともとは誰でもない君が、〇〇××という名前の中学生であることを決めたのは、君ではなくて、社会、つまり周りの他人だからだ。この世に複数の他人が存在する限り、この世に生まれてくる人は、必ず社会の中に生まれてくる。すべての人は社会人として生きているんだ。(P.79. L.2)

▶社会とは?

・複数の人の集まり※もっとも単純な定義
以下は、人の作り出した観念
・目に見えないのに存在するもの。思いや考えのことで社会は一つの観念
・社会という現実は、皆が内で思っているその観念の、外への現れ。
・観念が現実を作っている、観念が社会を作っている。
 ※すべてがそんなふうにできあがっている

▶「社会」は、それぞれの人の内の観念以外のものではないのだから、それぞれの人がよくなる以外に、社会をよくする方法なんてあるわけがないんだ。現実を作っているのは観念だ。観念が変わらなければ現実は変わらないんだ。社会のせいにできることなんか何があるのだろう。(P.83. L.11)

世のすべては人々の観念が作り出しているもの、その意味では、すべては幻想と言っていい。このことを、しっかり自覚できるようになろう。(P.83. L.15)

「社会」なんてものを目で見た人はいないのに、人はそれが何か自分の外に、自分より先に、存在するものだと思っている。思い込んでいるんだ。それが自分や皆でそう思っているだけの観念だということを忘れて、考えることをしていないから、思い込むことになるんだね。
でも、自分の外に存在しているかのように思われる社会というものを、それならよく見てごらん。その社会に存在しているのは、やっぱり同じように思い込んでいる人々がいるばかりじゃないか。その人々の集まりを「社会」と呼んでいるだけじゃないか。(P.82. L.13)

結局のところ、「社会」というのは、複数の人の集まりという単純な定義以上のものではない。それ以上の意味は、人の作り出した観念だということだ。複数の人が集まれば、複数の観念が集まり、混合し、競い合って、その中で最も支配的な観念、つまり最も多くの人が

そう思う観念が作り出している観念であることに変わりはない。「社会の動き」とは、つまり「観念の動き」である見る習慣を身につけよう。目に見えるものにとらわれず、目に見えないものを捉えることが、だんだんできるようになるはずだ。「世間」はみんなのニュアンス。でも「みんな」って誰のことだろう。みんなが言ってるやってることが、君の言うことやることにならなければならない理由はないよね。みんなが思い込んでいるだけの社会通念を、ひとつひとつ正確に見抜いていけるようになろう。(P.84. L.8)

13.規則

じゃあ、社会が決める法律には正しさは必ずしもないとすれば、正しさはどこにあるか、わかるね、そう、自分にあるんだ。善悪を正しく判断する基準は、自分にある、自分にしかないんだ。~中略~ 自由というのは国家や社会や法律が与えてくれるものだと思い込んでいるんだ。あげく、自分の自由を外側に要求するという大きな勘違いになるのだけど、こんな要求が満たされるわけがないとわかるね。だって、自由は自分の内側にしかないものだから。~中略~ 悪法も法なり、本当の法は自分の内にある。しょせん外側の法律や規制なんか、守ってやったっていいぜって感じかな。(P.90. L.7)

14.理想と現実

君が理想を失わずにその努力を続けていたのである限り、それは君の理想の実現なんだ。~中略~(理想が実現したら)君は最初から現実の内の理想、つまり自分の天分(天から与えられた性質、才能、職分)を知っていたというわけだ。(P.93. L.11)

でも、もし君がここで、実際に大リーグに行けなかったことで自分を責め、「所詮現実はそんなものだよ」と言い出した時、まさにそれが君の現実になる。理想と現実は別のもの、理想を現実の手の届かないものとしているのは、現実ではなくて、その人なんだ。観念が現実を作っているのであって、その逆ではないと、前の章で言いました。思いや考えが状況や環境を作り出すのであって、状況や環境によってその思いやその考えになるのではないということです。だから、この場合では、理想こそが現実を作っている、理想を失わずにいるのであれば、それはすでに現実であるということになるね。(P.93. L.14)

だって、考えてもごらん。もし目標としての理想が自分の内にあるのでなければ(自分の内にあることの否定)、どうやって人は何かをすることができるだろう。「何かをする」ということは、必ず何かを目指してすることだ。(P.94. L.5)

どうしても人が何かをするかと言えば、そうすることが自分にとってよいと思われるからだ。~中略~ だったら。人が何かをするということは、必ず理想を目指しているということじゃないだろうか。理想があるのでなければ、人は生きていないはずだ。(P.94. L.10)

単なる空想なら現実になるわけがない。理想を現実にしようと努力することこそが現実なんだ。(P.95. L.7)

理想がなければ現実はないということ、少し実感できるようなっただろうか。目に見える君の人生や、君の人生を含むこの社会を、一番深いところで動かしているのは「理想」、目に見えない概念としての理想なんだ。ちょっと難しい言い方をすれば「理念」と言ってもいい。よりよくなりたい、よりよくしたいという、現実の原動力としての、その思いだ。~中略~ 理想を語る君に対して、もっと現実を直視しなさいと諭すように言うだろう。でも、見えるものとして現れた現実だけを見て、見えない現実を見ていないのは彼らの方なんだから適当に聞き流すほうがいいよ。(P.95. L.9)

さて、君の人生はこの社会に含まれているのだから、この社会がよりよくならなければ、君の人生だってよくなるわけがないのは当然だ。この当然の事実に気がついた人々は、昔から、「よりよい社会」、つまり「理想の社会」の実現に努力してきた。(P.95. L.16)

なぜ理想の社会は現実にはならないのだろうか。もっとも単純な答えは、それが本物の理想ではなくて、単なる空想か、漠然とした憧れだったからだ。~中略~ 現実を動かしているのは観念なんだから、観念が変わらなければ、現実は変わらない。「よりよい社会で、よりよく生きる」という観念が、本当はどういうことなのか自分で判断していない人々が、集団になって、徒党を組んで、自分がよくなろうともせずに社会を変えようとしていたのだから、そんな社会は実現しても、前と変わらないのは当然じゃないだろうか。(P.96. L.4)

正しい仕方で理想をもつということは、とても難しいことだ。それが目に見えるものとして、実際に実現するかどうかということの方に、どうしても人は捉われてしまう。そして、理想というものは、見える現実を動かす見えない力として刻々として動いている、まさにそのことによって現実なんだと事実を忘れてしまうんだ。(P.97. L.3)

現実とはこういうものなんだと、挫折感を抱くかもしれない。でも、決してそんなことはないんだ。理想と現実とは別物ではないのだから、君が理想を持っている、それを失うことなく持ち続けているというそのことだけで、それは十分に現実的な力として、この世界の根底で確実に働き続けているんだ。むろんすぐになんか実現しないさ。だって、世界にはこれだけの人々がいるんだもの。でも、君が理想を失わないのであれば、いつかは必ず実現するんだ。(P.97. L.9)

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